「キッチュと工芸」

TEXTILE MEETING 09' アーティストプレゼンテーションにて発表 (2009年9月5日 京都芸術センター) 



要約

 

日本では各地に多くの祭りがあり、人々の生活に関わっている。その祭りに使われる道具や神輿などはいかにも豪華絢爛であり、それらを見るたび私は職人や祭りを支える人々の誇りが集結した工芸品の数々に強い生命力を感じる。
 日本の工芸では「いき」や「侘び・寂び」がおおよそ重視されてきた。これには茶の影響が大きく考えられる。「いき」や「侘び・寂び」が重視され、派手さや豪華さは排除される傾向にあった。さらに近代では日本の工芸は他の芸術と同様に西洋文化の影響を受け、工芸は精神の極致を目指すべく純粋芸術の領域へ向かい、一方で大衆芸術や限界芸術の領域にとどまった工芸品は低俗なまた俗悪なもの、「ぼろ」として扱われてきた。いわば、派手・豪華・低俗・俗悪≒キッチュは、工芸の根本的な要素の一つにあるにもかかわらず軽視された。私は工芸においてほとんど無視されてきたこのようなキッチュに光をあてることで、いっそう幅をもった工芸の解釈が可能なのではないかと考える。
 キッチュとはどう解釈されているかあらためて調べると、広辞苑(第五版)の①の意味では『まがいもの、俗悪なもの』、ウイキペディアでは『俗悪、異様なもの、毒々しいもの、下手物・・・複製技術の発展した近代・現代の、大量生産された工芸品などに見いだせる・・・「見る者」が見たこともない異様なものか、「意外な組み合わせ」「ありえない組み合わせ」・・・赤、緑、青、黄、ピンク、金、銀などのどぎつい色が特徴』とされ、翻訳書では、通俗物、いかもの、キワモノ、俗悪などに翻訳されている。また、石子順造の『キッチュ論』ではマンガ、銭湯のペンキ絵、ブロマイド、食品サンプル、造花、妖怪、怪獣、看板、歌舞伎の小道具など例にあげ、キッチュ論を展開している。そのように考えるとマンガ・アニメ・特撮などのオタク文化、デコトラ、銭湯の富士山、歌舞伎、鎧兜、各地の祭りの道具など、生活の身近な場所にキッチュな工芸的要素は数多く生き残っている。さらに、鶴見俊輔によれば『われわれ今日の人間が芸術に接近する道も、最初は新聞紙でつくったカブトだとか、奴ダコやコマ、あめ屋の色どったおしんこ細工のような限界芸術の諸ジャンルにある・・・。』(『限界芸術論』1967年 勁草書房)とまで記している。それゆえキッチュは生活ともっとも密接している工芸にとってごく自然な要素であり、むしろ芸術の起源に根差すものであるとも考えられる。キッチュは人々の生き生きとした生命力(≒生活≒身体性)の表現であると言えるのではないだろうか。
 キッチュに関して石子順造は『伝統的な一面と今日的な他面とを同時的にあわせもちながら、生活⇔表現⇔文化と相互にあいわたるあいまいだがたしかな意味・価値のカテゴリー・・・。』(『キッチュ論』1986年 喇嘛舎)と述べている。キッチュとはあくまで主観的な要素が強く、明確に概念化できるカテゴリーではない。だがキッチュは石子の言うように伝統と今日をつなげ、さらには芸術と生命をつなげるキーワードになるであろう。 
 私が染織工芸で手仕事(ろう染め)とコンピュータテクノロジーを複合させ、ときにはレディーメイドを扱うこと、マンガ・アニメ・特撮などからインスピレーションを得ること、下品さをテーマにすることなどは、キッチュを私なりに解釈した表現のしかたであり、さらに言えばキッチュなものに多くの影響を受けた私にとって制作とは、生命力を昇華させる行為でもある。



参考文献
石子順造 『キッチュ論』  1985年 喇嘛舎
岡田斗司夫 『オタク学入門』 1996年 太田出版
奥野卓司 『ジャパンクールと江戸文化』 2007年 岩波書店
北澤憲明 『アヴァンギャルド以降の工芸 「工芸的なるものをもとめて』 2003年 美学出版
九鬼周造 『「いき」の構造』 1979年 岩波書店
鶴見俊輔 『限界芸術論』 
1967年 勁草書房